アルゲリッチ出会いの物語 Story of Argerich Meeting Point

なぜ別府へ

アルゲリッチと別府のものがたりは1994年に始まります。

記者会見など滅多に応じないクラシック音楽界の頂点にあるピアニストアルゲリッチが、ジャーナリスト達の素朴な質問に答えた印象的なシーンがありました。

1994年10月 別府ビーコンプラザ・フィルハーモニアホール名誉音楽監督に就任。

「日本であれば東京だと思いますが、なぜ別府なのですか?」
「それはキョウコがいるからです。」

キョウコとは日本人ピアニスト伊藤京子のことでした。
アルゲリッチは1977年ミュンヘンで伊藤と出会いました。二人の親交は続き、この別府へと奇跡をもたらすこととなったのです。

伊藤京子とマルタ・アルゲリッチ

当時の別府市には別府コンベンションプラザの建設が進んでいました。
別府のこの施設から世界発信を願っていた別府市中村太郎市長は、両親が別府へ移住した伊藤の噂を聞き、この役割を伊藤に託したのです。

伊藤は市長に尋ねました。「本気で世界へ発信を考えているのですか?」と。
市長の国際的な催事を本気で考えていきたい、という返事を受けて伊藤は真に世界へ通用する人材が必要だと考えました。

偶然にもその時、伊藤はアルゲリッチと共に聴衆と一緒に演奏家が育っていけるような音楽会を企画していました。
伊藤の知人であった馬場財団の支援を受けて「アルゲリッチ・チェンバーミュージック・フェスティバル」を東京はじめ地方公演を行いました。長年サロンコンサートをシリーズで続けていたNHK大分放送局の要望もあり、その公演の一つに大分市も入っていたのです。

この公演の時に中村市長が直接アルゲリッチに委嘱をすることになったのですが、
これだけのスターピアニストであり多忙を極めており、芸術家の中の芸術家であるアルゲリッチがまさか受諾するわけがない、と考えていました。
しかし大半の予測を覆してアルゲリッチは快諾したのです。

「別府の奇跡」はこうして始まったのです。

アルゲリッチ・スペシャルオリジナルコンサート1995年9月

<音楽祭の歩み> 人々と共に歩む音楽祭へ

「出会い」から生まれたアルゲリッチとの奇跡は、本格的な音楽祭を前に地元の人々にその意図を伝えることから始めました。

そのために、プレコンサートとして1995年から1997年までの3年間の時間を持ちました。

’95年の第1弾、世界を驚かせたアルゲリッチの10年ぶりのピアノリサイタル!

以後、小澤征爾、ギドン・クレーメルなどアルゲリッチの推薦する世界のトップ・アーティスト、アジアの演奏家たちによるコンサートを毎年ビーコンプラザで開催。回を追うごとに、地元の人々の間にも少しずつ理解が深まり、ボランティア活動に協力する人たちも増えてきました。

左より、別府アルゲリッチコンサート’95、97年クレーメル ピアソラへのオマージュ97年、97年アルゲリッチ&ラビノヴィチ デュオリサイタル

そして満を持して1998年11月アルゲリッチの世界初の音楽祭が開始されました。

音楽祭の正式名称「Argerich’s Meeting Point(R) in Beppu」〜アルゲリッチの出会いの場〜
にはアルゲリッチと伊藤京子の“人が出会うことで多くのことが変わり、未来が開ける、幸せな出会いを多くの人々へ“という深い思いが込められています。
音楽が社会にできることを心に刻み、この名称に込められた思いと共に音楽祭はスタートしたのです。
[日本語名通称:別府アルゲリッチ音楽祭]