曲目解説【6/15 日本の音楽家の今を聴く】 第24回別府アルゲリッチ音楽祭

C. サン=サーンス:〈白鳥〉

 カミーユ・サン=サーンス(1835〜1921)は1886年、オーストリアの小さな村で休暇を過ごしていた。その休暇中に一気に書き上げたのが《動物の謝肉祭》だ。元はピアノ教師時代(1861〜65年)に、教材用にと書いた曲。これを室内楽向けに改めた。
 チェリストのルブクが、作曲家にこの改訂のきっかけを与えたという。ルブクは1886年の謝肉祭(カーニバル)に、私的なコンサートを企画。サンサーンスはこのコンサートのために、気軽で愉快な作品を書こうと思い立った。
 作品は14曲からなる。タイトルの通りさまざまな“動物”を題材とする。鳴き声や場面の描写、他人の作品や民謡の引用、人物や職業への風刺などがちりばめられている。〈白鳥〉はその第13曲。チェロと2台のピアノのための作品だ。
 さて、サン=サーンスはそんな親しみやすい作品を封印してしまった。作曲者存命中、《動物の謝肉祭》の公開上演を禁止。楽譜の印刷に関しても厳しい態度で臨む。理由はその親しみやすさにあった。サンサーンスはみずからを“真面目な音楽”の作曲家と考えていた。そんな彼の目には、《動物の謝肉祭》が自作とはいえ、あまりにも“不真面目”に映ったのだ。ただし〈白鳥〉だけは生前に演奏を許し、1887年にはチェロと1台のピアノの編成に直して出版した。

G. カサド:〈親愛の言葉〉

 バルセロナの音楽家の家系に生まれたガズパール・カサド(1897〜1966)は、作曲家だった父ホアキンの下で音楽の基礎を学び、同地の音楽院を経て1910年、パリで同郷のパブロ・カザルスに師事し、チェロの演奏を修めた。18年に国際的に演奏活動を展開するようになってから20世紀の半ばまで、一貫して第一線の演奏家として活躍。1959年に日本人のピアニスト原智恵子と結婚した。
 カサドにはチェリストの他にふたつの横顔がある。ひとつは蒐集家、もうひとつは作曲だ。蒐集家としてさまざまな楽譜を集め、それらを後世に遺した。近年、日本で話題になったのは、バッハのカンタータ《満ち足れるプライセの都よ》BWV216の筆写声楽譜。行方不明になっていたこの楽譜が2004年、カサドと原の遺品であるコレクションから発見された。
 作曲家としてはオラトリオ、チェロ協奏曲、管弦楽のための《カタルーニャ狂詩曲》など大規模な作品を残す。一方で膨大な数の室内楽も手がけている。そのうちもっとも有名なのは、チェロとピアノのための小品〈親愛の言葉〉だろう。3拍子系・2拍子系・3拍子系と大きく3つの部分に分けられる。いずれもスペイン風の節回しが印象的だ。

J. ブラームス(N. ザルター, D. ゲリンガス編曲)
《5つの歌》op. 105より 第1曲〈調べのように〉
《5つの歌》op. 49より 第4曲〈子守歌〉
《5つの歌》op. 71より 第5曲〈愛の歌〉

J. ブラームス:チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 op. 38

 ヨハネス・ブラームス(1833〜97)が中低音を偏愛していたことは、その作品群から読み取ることができる。2つのチェロ・ソナタや4つのクラリネット室内楽、またホルンのための作品など、(高い音も出せるにせよ)中低音を“主戦場”とする楽器のために、充実した曲を残している。
 作曲家は中低音の秘める仄暗さに惹かれたのだろうか。必ずしもそうではなさそうだ。陽の光の降り注ぐような楽想を持つ交響曲第2番ニ長調 op.73の冒頭、朗らかでくつろいだ雰囲気の第1主題を弾き出すのは、オーケストラの最低音域を担当するコントラバス。つまりブラームスは、中低音の持つ情緒云々でなく、純粋に低い音が好みだったのだろう。その点から考えると、作曲家の心根にはつねに、中低音が厚く鳴り響いていたに違いない。
 だから、ノルベルト・ザルター(1868〜1935)がブラームスの歌曲をチェロとピアノのために編曲して出版したときも、作曲家はその“移し替え”を否とはしなかったのではないか。ザルターはブダペストとハンブルクで、グスタフ・マーラーの指揮するオーケストラにチェリストとして在籍していた。1896年に、ブラームスの6つの歌曲集(op.3・49・71・86・94・105)から作品を選び出し、先述の通りチェロとピアノの編成に移し替え、編曲集として刊行した。本日はその内、3曲を演奏する。なお、この3曲は、ザルターの編曲を下敷きにダヴィト・ゲリンガス(1946生)が補作したものだ。ゲリンガスはリトアニア生まれのドイツのチェリスト。ソヴィエト連邦時代にモスクワ音楽院で、20世紀のチェロの大家ロストロポーヴィチに師事し、以後、演奏家として活動している。日本にも縁が深く、2006年から13年にかけて首席客演指揮者として、九州交響楽団のステージに継続して立っていた。
 〈調べのように〉(1886年)は《5つの歌》op.105の第1曲。グロートによる原曲の詩は「旋律のように何かがふと心をよぎる。言葉がやってきてそれを目の前に引き摺り出すと、色あせて消えてしまう。とはいえ、その韻律には香気も漂う」という内容を持つ。
 《5つの歌》op. 49の第4曲《子守歌》(1868年)は、ブラームス作品の中でもとりわけ人口に膾炙した1曲だ。ゆりかごを模したような音の動きが、心地よく響く。詩の第1連は民謡詩集『子供の魔法の角笛』の1篇から、第2連はシェーラーの作品から採った。「こんばんは、おやすみ」と語りかける言葉は、いかにも子守歌の歌詞である。
 〈愛の歌〉は《5つの歌》op.71の第5曲(1877年)で、18世紀の詩人ヘルティの作品に音楽をつけたもの。「彼女の一挙手一投足が世界を美しくする。彼女がいなければ僕は死んだも同然だ。愛しい人よ離れていかないでくれ」と、恋する青年の思いを歌う。

 ブラームスは2曲のチェロ・ソナタを書いた、と先ほど言及したが、このジャンルへの取り組み自体は、もう少し厚みのあるものだった。
 1851年7月5日、ハンブルクでのあるコンサートで、ブラームスのチェロとピアノのための二重奏が演奏された。しかし、のちに作曲家はこの作品を破棄してしまう(そのため現存しない)。1862年になりブラームスは、チェロ・ソナタを作曲する過程で、その緩徐楽章としてチェロとピアノのためのアダージョを書くも、逡巡の末、取り下げる(作品の詳細は不明)。ただし、このアダージョを後年、チェロ・ソナタ第2番ヘ長調 op.99(1886年)の第2楽章に“再利用”したと考えられている。
 このようにブラームスは、足掛け35年にわたって断続的にチェロ・ソナタと“格闘”した。その最初の成果が、1865年に完成させたチェロ・ソナタ第1番ホ短調 op.38である。ブラームスは若いころから晩年まで一貫して、バッハ作品に多くを学んだ。チェロ・ソナタ第1番も、そのバッハ学習から生まれた曲のひとつだ。
 4楽章制でなく3楽章制をとるのは、先ほど触れた通り、当初予定していた緩徐楽章を削除したため。3楽章制でバッハ作品を取り入れた同ジャンルの先例としては、ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第5番ニ長調 op.102-2がある。
 ブラームスは第1楽章で、バッハ最晩年の大作《フーガの技法》BWV1080のコントラプンクトゥスIVを下敷きとして使った。ただし、全体は古典期以降のソナタ形式でホモフォニックに書き進めているので、必ずしも対位法的というわけではない。舞曲メヌエット風の第2楽章を経て終楽章にいたると、バッハ学習の成果がいっそう色濃くあらわれる。この楽章でブラームスは、《フーガの技法》のコントラプンクトゥスXIIIを用いる。そこに、その主題の反行形(上下対称の形)を組み合わせ、ポリフォニックに音楽を駆動する。

文:澤谷夏樹