【日時】 2022年6月5日(日) 開場13:30 開演14:00 終演18:00(予定)
【会場】 別府市 /しいきアルゲリッチハウス・サロン
【出演】 山縣美季(ピアノ) 谷 昂登(ピアノ)


<山縣美季>
瀧廉太郎:メヌエット
R. Taki "Minuet" in b minor

 日本初のピアノ曲とされるメヌエットを瀧廉太郎(1879〜1903)が書いたのは、1900(明治33)年のことだった。
 東京で生まれたのち、父親の転勤に伴って各地を転々とする。一族の根拠地である大分県竹田を経て東都に戻り、1894(明治27)年9月、東京音楽学校に入学した。その後、1901年には文部省の男子音楽留学生第1号として渡独、ライプツィヒ音楽院に入るも、肺結核を患い翌年、無念の帰国。大分市で亡くなった。享年23。
 ピアニストとしてデビューし、母校の嘱託教員として後進の指導にあたっていたころ、瀧はメヌエットを書き上げた。これは東京音楽学校の校是に沿った創作だった。学校の前身・音楽取調掛の「創置処務概略」には、掛の大綱第1項として「東西二洋の音楽を折衷して、新曲を作る事」とある。
 実際、メヌエットはロ短調(西洋短音階)ながら、どこか邦楽の陰旋法を思わせる曲調をとる。それでいてハーモニーはやはり西洋の音楽理論の内に留まっている。ここに「東西二洋の音楽を折衷して」作った「新曲」の姿を見ることができる。
 先述の大綱第2項には「将来国楽を興すべき人物を養成する事」とある。瀧廉太郎はまさに、その第一走者だった。



W・A・モーツァルト: フランスの歌《ああ、お母さん聞いて》による12の変奏曲 ハ長調 K.265 / K6.300e (きらきら星変奏曲)


 親しみやすい旋律の童謡「きらきら星」はもともと、18世紀に流行したシャンソンだった。娘が母親に意中の人を打ち明ける歌。1770年代のパリではすでに、変奏曲の主題としてもてはやされていた。
 その様子を現地でつぶさに見たのが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756〜91)、その人である。パリの流行をウィーンの人々にも楽しんでもらおうと、この旋律を主題に変奏曲を書き上げた。それが、フランスの歌《ああ、お母さん聞いて》による12の変奏曲 ハ長調だ。
 簡素なメロディーを主題に持つが、作品全体の演奏はなかなか難しい。変奏が進むにつれて必要とされる技術の難易度が上がっていく。特に第8変奏以降、入り組んだポリフォニーのパート処理、手の交差、両手を揃えての素早い動きなど、“技のデパート”と言っても過言ではない内容を持つ。
 古い作曲法が顔を出すのも興味深い。たとえば第5変奏。右手と左手で交互に音の断片を弾くことで、全体としては一連の掛け合いを作り出す「ホケトゥス」(しゃっくりの意)を使う。これは中世から伝わる作曲法だ。
 第11変奏の「アダージョ」は速度記号というよりも、バロック期の意味合い、つまり「自由に装飾を施して」に近い。実際、ヴァイオリンの即興演奏のような趣がある。



C・フランク:プレリュード、コラールとフーガ ロ短調 M.21
C. Franck Prelude, Chorale and Fugue in b minor, M.21

 1871年、フランスに国民音楽協会が誕生した。この団体は、同国の音楽と新進作曲家を広く世間に紹介するための互助組織だ。発起人はサン=サーンスとビュシーヌ。草創期の会員にはマスネやフォーレ、ラロやビゼーらがいた。
 セザール・フランク(1822〜90)もまた、重要なメンバーの1人だった。フランクは1884年、この国民音楽協会の演奏会のため、およそ40年ぶりにピアノ独奏曲に取り組んだ。その結果として生まれたのが、プレリュード、コラールとフーガ ロ短調 M.21である。
  タイトルの通り作品は3部分からなる。ただし、演奏は切れ目なく進む。バロック期の「プレリュードとフーガ」に倣っているが、そこにコラールを挟み込むのは作曲者の創意。フランクにとって重要だったのは、バッハ風の体裁というよりも、曲を3部分構成にし、その各部をひとつの主題で関連づけることだった。
 その主題とは十字架音形。4つの音の第1・4音を結ぶ線と第2・3音を結ぶ線とが、五線譜上でクロスする。フランクは、プレリュードに登場させたこの音形を、続くコラールの旋律に埋め込み、その旋律をフーガの大詰めで回帰させた。



A・ブルックナー: 幻想曲 ト長調 WAB118
A.Bruckner Fantasia in G major, WAB118

 アントン・ブルックナー(1824〜96)は1868年9月末、ウィーンに移住する。その直前、リンツでの最後の作品として、ピアノのための幻想曲 ト長調 WAB118を書き上げた。
 ブルックナーは、リンツ大聖堂オルガニストや合唱団指揮者として働くかたわら、改めて作曲を学ぼうと、ウィーン在住の音楽理論家ジモン・ゼヒターの門下に入った。一方、リンツでは鍵盤楽器の教師としても活動したので、この時期、作曲家は演奏家であり、生徒であり、教師でもあった。
 前作の《思い出》変イ長調 WAB117とともに、ブルックナーは幻想曲をリンツ時代のピアノの弟子アレクサンドリーネ・ゾイカに捧げた。WAB117のタイトルからも窺える通り、ウィーンに移る直前、惜別の念を曲に込め、レッスンの記念としたのであろう。
 曲はゆっくりとした第1楽章と、快活な第2楽章とからなる。いずれの楽章もダカーポ形式、つまりABAの簡素な形をとる。「感情を込めて」と但し書きの残る第1楽章は、のちの交響曲の緩徐楽章をいくぶん感じさせる。第2楽章は民俗舞踊風。ハイドンやシューベルトといったウィーンの作曲家の気風を受け継いでいる。



F・シューベルト:ピアノ・ソナタ第18番 ト長調《幻想曲》D894 作品78
F. Schubert Piano Sonata No.18 in G major "Fantasy", op.78, D894

 1825年から26年にかけて、フランツ・シューベルト(1797〜1828)は生涯でもっとも恵まれた時を過ごした。この時期、ほぼ毎週、シューベルティアーデが開かれたのだ。
 シューベルティアーデとは、シューベルトを囲む私的な集まりを指す。仲間が自邸などの会場を融通し、この音楽家の作品を楽しむ夕べを催していた。つまりシューべルトは、小規模ながら毎週、自作品の個展をしていたことになる。
 2種類の肖像版画が発売されたのも同じころ。今日の芸能人ブロマイド同様、肖像画も音楽家の人気のバロメーターだった。
 ピアノ・ソナタ第18番《幻想曲》の作曲は1826年。充実した活動期間のさなかである。《幻想曲》という副題は、楽譜出版の事情に由来する。作曲の翌年、版元のハスリンガー社が、楽章ごとに「ファンタジー、アンダンテ、メヌエット、アレグレット」とタイトルを付け、4つの小品としてこの作品を売り出した。この第1曲(=第1楽章)「ファンタジー」をとって、以後、ソナタ全体を《幻想曲》と呼ぶようになった。
 ト長調(♯)から変ホ長調(♭♭♭)への転調に見られるような、シャープ系とフラット系との間を揺れ動く情緒は注目に値する。その揺れ動きが、この作曲家特有の抒情性を映し出している。


<谷 昂登>
R・シューマン:幻想曲 ハ長調 作品17
R. Schumann Fantasia in C major, op.17

 幻想曲 作品17には、ロベルト・シューマン(1810〜56)の考えるロマン主義が詰まっている。ベートーヴェン作品の引用、3楽章制の採用、シュレーゲルの詩の添付といった工夫に、作曲家の主張がにじむ。

  すべての音を通して
  さまざまな大地の夢となって
  ひとつのかそけき音は流れ
  ひそかに耳を澄まして待つ者に語りかける
        F・シュレーゲル「茂み」

 シューマンは1836年半ばに幻想曲の作曲に取り掛かり、年内に作品を書き上げた。作曲家は当初、3つの楽章それぞれに「廃墟」「凱旋門」「星座」といった標題を付けていたが、39年の出版に際してそれらを取り除き、上述のシュレーゲルの詩を代わりに添えた。
 第1楽章には、ベートーヴェンの歌曲集《遥かな恋人に寄せて》第6曲からの引用がある。歌曲の詩の内容は次のとおりだ。

  さあ受け取ってくれ、
  君のために歌ったこの歌を
  リュートの甘い響きにあわせ
  夕べにまた、この歌を歌っておくれ
        A・ヤイテレス「遥かな恋人に寄せて」

 シュレーゲルとヤイテレスの詩は互いに関係を持たないが、両者はシューマンの個人史によって幻想曲第1楽章で結びつけられる。作曲家にとって「君」とはクララのこと。クララの父ヴィークによって引き離された2人の関係を、シューマンは作品に投影している。



P・I・チャイコフスキー:《四季 − 12の性格的描写》より「10月 秋の歌」ニ短調 作品37bis
P. I. Tchaikovsky "Octorber - Autumn song" from "The Seasons", op.37a

 1875年の末、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840〜93)はピアノ曲集《四季》の作曲に取り掛かった。この作品は12曲で1年をひとめぐりする構成をとる。月刊誌の1876年各号に1曲ずつ作品を掲載するため、この曲集を編んだ。いずれの曲も、花鳥風月を詠んだ詩を下敷きにしている。雑誌は詩とチャイコフスキーの音楽とを並べて掲載した。音楽は曲集の副題の通り、詩の「性格的描写」をおこなう。
 いたるところに顔を出す管弦楽風の音運びのためか、バレエ音楽のようなオーケストラ曲をピアノ用に編曲したもののようにも聴こえるが、実際はオリジナルの鍵盤作品。詩の性格描写という課題はたしかに、場面を的確に捉え、瞬時に雰囲気作りに寄与するバレエ音楽の使命と似たところがある。
 西欧風の枠組みに、シンコペーションなどのリズムの工夫、五音音階による旋律、半音を使った独特の音運びなどを詰め込む点に、チャイコフスキーの音楽作りの特徴がよく表れている。
 「10月 秋の歌」は、冬枯れ間近、落ち葉のつもる庭、木の葉の舞う様子を詠んだトルストイの詩に基づく。力点をずらしたシンコペーションや三連符が、どこかうつむき加減に歩みを進める晩秋の散歩を思わせる。



F・クライスラー/S・ラフマニノフ:《愛の悲しみ》
F. Kreisler (ed. S. Rachmaninov) "Love's Sorrow"

 フリッツ・クライスラー(1875-1962)は20世紀を代表するヴァイオリニストのひとり。12歳までにウィーン音楽院とパリ音楽院とをどちらも首席で卒業したのは、後にも先にもこの音楽家くらいだろう。作曲にも優れ、各時代のスタイルを見事に書き分けることができたので、18世紀のスタイルの曲を作っては、バロック期や古典期の新発見曲として紹介する「いたずら」をすることもあった。
 もちろんオリジナル曲も多く、オペレッタから小品にいたるまで、様々なジャンルの作品を残す。その内もっとも有名なのが、ヴァイオリンとピアノのための《愛の喜び》《愛の悲しみ》《美しいロスマリン》の3曲だ。1905年の出版時、作曲者名はヨーゼフ・ランナーだった。ランナーは19世紀前半にウィーンで活躍した音楽家で、ワルツの作曲に長けた人物。のちにクライスラー作と訂正されたが、もしかするとこの3曲も、クライスラーが「いたずら」のひとつとして書いたものなのかもしれない。
 セルゲイ・ラフマニノフ(1873〜1943)は1921年、《愛の悲しみ》をピアノ独奏用に編曲した。垢抜けない民俗舞踊風を目指したクライスラーとは異なり、ラフマニノフはこの曲を都会的なダンス音楽へと仕立て直している。



S・ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品36(1931年改訂版)
S. Rachmaninov Piano Sonata No.2 in b-flat minor, op.36

 セルゲイ・ラフマニノフ(1873〜1943)は当時、ピアニストとして名声を得ていた。スケジュールはつねにいっぱい。どの演奏会も開演前から行列ができ、満員札止めだった。1812〜13年のシーズンはとりわけ忙しく、あまりの過密日程のため過労となり、最終公演をキャンセルした。
 スイスやローマで休養をとったラフマニノフは13年夏、ロシア中部イヴァーノフカの領地に戻りいっそう安寧な生活を送る。その充実した時間の中で ピアノ・ソナタ第2番を書き上げた。
 その後、ロシアの政情は急速に変化する。1914年に第一次世界大戦が勃発、17年には二月・十月の両革命がロシアで起きた。ラフマニノフは18年、騒々しい欧州を離れアメリカに渡る。31年の初めにはソ連の体制を批判し、故郷で自作が演奏禁止となった。
 そんな年の夏、平穏だったあのころに書いたソナタを改訂しようと決意する。長大でいささか錯綜した音楽の流れを大胆にカットして、新しい時代の新しい聴衆に届くようにしようと考えたのだ。
 全体は3楽章からなる。第1楽章、鐘の音のような音形に乗って示される半音階的なモティーフが印象的。以後、半音階のモティーフを作品全体を束ねるかすがいとして用いる。



解説:澤谷夏樹

※曲目、演奏順、演奏者等は変更になる可能性がございますのでご了承ください。



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